あらためて「介護の原点」を問う

 

「My Care Plan News」(176,177,178号)巻頭言からの転載

マイケアプラン研究会代表世話人

 

社会福祉法人健光園理事長
小國 英夫 

 

 

 2月4日に開催された今年度の公開企画は60名以上の参加者によって活発な意見交換が行われ参加者の満足度も高かったと思う。その第1の理由は「新総合事業」に焦点を絞ったことによって参加者が抱いている疑問、不安、不満等々を大いに吐き出すことができたからではないかと思う。第2の理由は3月12日に共同で「だまってたらあかん! どんどん変わる介護保険~京都市の新総合事業ってなに?」を主催する団体(よりよい介護をつくる市民ネットワーク=構成団体「きょうと介護保険にかかわる会」「京都ヘルパー連絡会」「高齢社会をよくする女性の会・京都」「京都助けあいグループりぼん有志」「マイケアプラン研究会」)のメンバーがかなり参加して下さったことではないかと思う。

 また3月12日の「だまってたらあかん!」には以下のような団体が後援して下さっている。京都新聞社会福祉事業団(助成も)、認知症の人と家族の会京都府支部、男性介護者の会、京都市地域包括支援センター・在宅介護支援センター連絡協議会、ケアの会京都。

 これらの団体は当然その成り立ちや考え方は異なっている。しかし新総合事業に関して大いなる危機感をもっているという点においては一致している。新総合事業においては介護保険のサービスの一部が行政サービスにとって代わる。今回は要支援1・2が利用する訪問介護と通所介護がその対象であるが、今後は要介護1・2へも拡大されることは確実である。そうなれば介護保険の被保険者の3分の2が行政サービスの対象者となるのである。

 そもそも介護保険制度は超高齢社会が進行するなかで社会保険制度による介護の社会化を目的に創設されたものである。介護保険制度以前は病院等への社会的入院(医療保険)や特養等への入所(措置制度=行政処分)、そして最も多かったのは在宅での家族による介護である。こうした現実を改善しようとして介護保険制度が誕生した。その趣旨は介護が必要になっても地域で自分らしく暮らし続けられるようにというものであった筈である。

 「措置から契約へ」「サービスの自己選択・自己決定」といった言葉が飛び交った。しかしその後も入所型サービスは増え続け現在では約100万人が介護保険施設(特養、老健、介護療養型)に入所している。それだけではなく有料老人ホームに42万人以上、認知症グループホームに19万人以上、更には近年急増しているサービス付き高齢者住宅にも19万人近くが入居している。これに軽費老人ホームや養護老人ホーム等を加えれば一昨年時点で約200万人が自宅以外で生活している(せざるを得ない)ということである。

 政府は新3本の矢政策の中で「介護離職ゼロ」を目指しているのであるが、これとてその中身は大量の入所型サービスを提供するというものである。ただでさえ介護分野の労働力が数十万人規模で不足するといわれる中でこうした政策を強行すればどうなるかは火を見るよりも明らかである。しかも人生の最後を自宅ではなく施設でしか暮らせない人々が更に増え続ける結果となる。これが介護保険制度の目指していたものであろうか。「尊厳」と言った言葉が実に空しく思える。

 そもそもこうしたでたらめな制度や政策がまかり通るのは「介護の本質(原点)」が無視されてきたからである。実は介護保険制度を立ち上げるための議論においても急ぎ過ぎたためか本質論はほとんど議論された形跡がない。これがボタンの掛け違いの最大の理由である。社会的入院の解消による医療費の削減、措置から契約への転換による公費(税金)支出の削減といった財政面での議論のみで一挙につくりあげたのが介護保険制度である。

 それでもわれわれは「介護が必要になっても自分らしい暮らしができる」と介護保険制度に大いに期待した。しかしその期待は制度発足から数年にしてドンドンと裏切られてきた。そしてついに保険給付から行政サービスへの一部先祖返りが始まった。それが新総合事業である。京都市においては行政サービスだからという理由でケアプランの自己作成も認めていない。更に生活援助は誰でもできるものだからと8時間の研修修了者に担当させることにしている。

 生活援助は身体介護以上に個別性があり、その人の生活そのものへの援助であることが忘れられている。近隣同士の自発的な助け合いと行政サービスとの根本的な違いも無視されている。

 介護は生活の一部であり、人生の一部である。またその本質は人とひととの関係性にある。より良い人間関係(家族関係、近隣関係、友人関係等々)が土台となってこそ社会的サービスとしての介護サービスはその効果を発揮する。介護の本質は決して食事・排泄・入浴などの援助(いわゆる三大介護)にあるのではない。より良い人間関係がないところに食事・排泄・入浴などの援助だけが提供されても人間らしい生活とはいえない。

 こうした根本的な議論がない中で今国会では「地域包括ケア強化法」なるものが議論されようとしている。これは介護保険法、医療法、社会福祉法、障害者総合支援法、児童福祉法等の一括改定をするというものである。そもそも地域包括ケアとは何なのか。現在ですら200万人が自宅以外で(家族、近隣、友人等と離れて)生活せざるを得ない状況であるにも関わらず、地域包括ケアの名において特養やサ高住が増設され、更に新たに「介護医療院」というわけのわからない施設が創設されようとしている。これが地域包括ケアの実態なのである。

 われわれはこうした制度政策に振り回されることなく、自分たちで自分たちの暮らしやコミュニティを再生しなければならない。そのためには地域福祉だけではなく、産業福祉の開発が必要である。これらが車の両輪となって初めてより良い暮らしの土台(コミュニティ)が形成される。このことに関しては別の機会に述べたいと思う。

 

 

あらためて「介護の原点」を問う(その2)

地域福祉と産業福祉の観点から

 

 前の号の巻頭言は次の文章で締めくくっている。「自分たちで自分たちの暮らしやコミュニティを再生しなければならない。そのためには地域福祉だけではなく、産業福祉の開発が必要である。これらが車の両輪となって初めてより良い暮らしの土台(コミュニティ)が形成される。」

 そこで本号では「介護の原点を問う」の(その2)として地域福祉と産業福祉の観点から介護の原点を見直してみたいと思う。

 前号ではまた次のようにも述べている。「介護は生活の一部であり、人生の一部である。またその本質は人とひととの関係性にある。より良い人間関係(家族関係、近隣関係、友人関係等々)が土台となってこそ社会的サービスとしての介護サービスはその効果を発揮する。介護の本質は決して食事・排泄・入浴などの援助(いわゆる三大介護)にあるのではない。より良い人間関係がないところに食事・排泄・入浴などの援助だけが提供されても人間らしい生活とはいえない。」

 産業革命以後、有形無形の「ものの豊かさ」ばかりが追及され、それを実現するために高度な効率化を求めた結果として現代社会は高度分業社会となった。つまり人々は複雑に分業化された(細分化され全体像やその価値が見えなくなった)職業の中から何か1つを選択し、それによって収入を得、その収入でもって他の人々が提供する商品を購入して生活を組み立てている。要するに現代人の生活はいわば無数の商品の組み合わせによる一種のモザイク状で、一見豊かに見えるが不安定で主体性のない単なる商品の寄せ集めでしかないということである。

 また、日本人の労働生産性は決して高くなく、長時間労働が一般的である。こうした状況にあっては、生活の土台としてのより良い人間関係やコミュニティを主体的且つ効果的に形成するという重要な市民としての、生活者としての役割を果たすことができない。その結果としてより一層商品に依存することになり、人間関係やコミュニティはますます疲弊するという悪循環に陥るのである。そのため、生活のコストは更に高額となるが、生活の質(QOL)はますます低下するというみじめな結果となっている。こうした生活はリスクが多く、且つストレスも多いため非常に生き辛いものであり、人々の福祉はますます低下していくのである。

 こうした産業社会の状況を根本的に改革することが喫緊の課題である。政府は「働き方改革」を推進しようとしているが、その考え方は「労働力の保全」という社会政策的な意味合いのものでしかない。経済発展至上主義の中でも労働の搾取には限界がある。特に少子高齢社会にあってあらゆる分野に労働力不足が拡大している状況では労働力の使い捨ては産業基盤を危うくする。かつて「百姓は生かさず殺さず」といわれた時代があるが、現代にあっては「労働者は生かさず殺さず」である。政府の政策にはいつもこのように衣の下から鎧が見え隠れする危うさがある。

 介護の本質は人間関係にある。それは子育ても同様である。また介護は生活の一部であり、人生の一部である。それゆえ介護は「外部化」によって解決するものではなく、主体的に取り組んでこそ価値あるものとなる。介護は誰の人生にも必ず必要となるものである。それゆえ誰もが介護(する、される)を経験(私はそうした人生の課題=ライフイベントを前もってリハーサルすることを「予備体験」と呼んでいる。現代社会では何でも外部化してしまうために予備体験が欠落している。そのことが生きる力=生活力を奪っている)することは人生をよりよく生きるための必須である。但し、長寿社会にあっては介護を単なる個人的な課題、家族的な課題とすることはできない。そのために介護の社会化が必要となった。要するに介護はコミュニティの課題(地域社会における「学びあいと助け合いの課題」)なのである。介護をしっかりと担えるより良いコミュニティの形成が不可欠である。

 しかし、そのためには産業社会(具体的には各企業や職場のあり方、働き方)を改革しなければならない。それを私は産業福祉と呼んでいる。職業だけが人生のような社会ではより良いコミュニティは形成されない。誰もが職業人である前に市民、社会人、生活者であること、すなわち、コミュニティの一員であり主体的なコミュニティの形成者であることを忘れてはならない。自分自身の反省を含めて遅ればせながら産業福祉の開発が重要であることを発信するとともに、自分が関わる職場において積極的に産業福祉を開発することが地域福祉の発展にとって不可欠な要件であると考える。

 

あらためて「介護の原点」を問う(その3)

介護は「消費財」か?

 

 経済学では企業が提供するものを「財」という。財は大別すると消費財と生産財に分かれる。同じテレビでも個人が家で見るために購入すれば消費財となり、学校の教室やホテルの客室用に購入すれば生産財となる。更に消費財には有形のものと無形のものがある。テレビは有形であり、各種のサービスは無形である。こうした分類で考えると、例えばピザの宅配では、ピザは有形の消費財で、宅配サービスは無形の消費財である。この文脈で考えると 介護保険で給付される各種の介護サービスの殆どは無形の消費財ということになる。

 かつて介護の殆どはインフォーマルなものであり、消費財ではなかった。また、介護保険以前の病院における「社会的入院」や特別養護老人ホームへの措置入所(行政処分)によって提供される「利用者処遇」などを消費財と考えることはほとんどなかった。その理由にはいろいろあろうが、基本的には市場に流通していなかったからであろう。

 しかし2000(平成12)年度に介護保険がスタートして状況は一変した。毎月の社会保険料3,000円(当時)を払えば介護はアウトソーシング(外部化)できる。自分でするのではなく、或いは家族にしてもらうのではなく、ケアマネジャーが作成するケアプランに基づいて専門職が介護を提供する。このようにして要介護高齢者やその家族は専門事業者や専門職が提供する介護の消費者になったのである。

 社会福祉関係の国家資格は1987(昭和62)年に制定された社会福祉士及び介護福祉士法によって本格化し、社会福祉関係職員は専門職になった。この法律が制定された背景には増大する介護需要に対して、できるだけコストをかけないで介護サービスの質と量を確保するには専門職化するのがよい、という政府(当時の大蔵省や厚生省)の考え方があった。

こうした専門職化は介護保険制度の創設にとっても都合がよかった。特別の知識や技術を必要としない誰にでもできる介護、ほとんどコストのかからない介護などのために保険料を支払う人はいない。つまり、社会保険制度を構築するには、リスクとしての保険事故(要介護状態)に対応するのは基本的に専門職が適当であり、専門職による介護には高額なコストがかかるという要件が不可欠であった。換言すれば従来の家族介護は素人介護だから不適切である。また家族だけによる介護は長期に継続できない。従って、介護は外部化し、専門職に任せるべきである、という考え方が急速に広まって、介護保険制度は比較的短期間に制度化されたのである。

また、介護保険制度を構築するに至る過程では介護の本質に関する議論はほとんどされた形跡がない。議論された主な内容は、当時の社会的入院のために医療保険給付が膨張し、保険財政を圧迫していること、また、それにより入院医療が必要な患者のためのベッドが確保できない状況になっていること、一方、特養等への措置は公費(税金)で行われているため、超高齢化でどんどん増える要介護者への対応には公費以外の財源確保が急務であるということ、更には、長期にわたる家族介護が介護地獄という深刻な状況を生み出していること、等々が中心であった。このようにして誕生した介護保険だからこそ「介護は消費財」という状況を生み出したのである。

介護の本質は人とひととの関係にあり、生活の一部、人生の一部である。従って、一人ひとりが主体的且つ社会的に取り組むべき課題であるが、介護が消費財として認識されたために、介護の本質が大切にされることはなかった。従って2005(平成17)年の法改正で挿入された「尊厳」の二文字も浮き上がってしまっている。

また同時に打ち出された地域包括ケア(システム)は地域包括支援センターを軸に市町村(保険者)によって住まい、医療、介護、予防、生活支援等を総合的に提供するシステムとされ、これによって重度要介護者であっても最期まで住み慣れた地域で暮らし続けることを目指すとされている。

しかしそれから10年以上経過した今日の状況を見ればコミュニティの状況や高齢者の暮らしの実態が改善されたとはとても思えない。多くの高齢者は単身世帯や夫婦世帯に属しており、貧困で孤独な生活を送っている。要介護高齢者もこうした社会状況を背景として高齢者人口の増加速度を越えて増加している。そうした中で高齢者は自宅での生活が困難となり、現在200万人以上がサ高住等を含む各種の施設での生活を余儀なくされている。

要するに行政主導の地域包括ケアでは高齢者の社会的孤立を改善することができないだけでなく、全ての世代が学び合い助け合う市民・住民が主体となるコミュニティづくりとは真逆の方向に進んでいるのである。そのため「地域崩壊システム」などと陰口をいわれるのである。

しかし、政府は制度の保全だけを目的に新総合事業というとんでもない改悪を進めてますます傷口を大きくしているのである。それもこれも介護の本質を無視して消費財としての介護を提供している結果である。従って、われわれは決して介護の消費者としての暮らしを続けてはいけないのである。