論壇

 

新総合事業で地域づくりは困難
『コミュニティの再生』市民の責任

 

※シルバー新報2016.8.19号からの転載

マイケアプラン研究会代表世話人

社会福祉法人健光園理事長
小國 英夫

 

「事業型社協」が地域福祉崩壊の始まりに

 介護保険制度改革により要支援1・2の人々への訪問介護と通所介護が保険によるサービスから自治体による行政サービスに移行した。更には既に始まった次期制度改正議論において要介護の人々へのサービスも見直されようとしている。この小論においてはこうした流れの中で「市民ボランティアやNPOなどが行政や社協によって新総合事業に組み込まれて行っている事実」を踏まえ、それがこれからの日本の福祉(特に地域福祉)にどういった影響をもたらすかを、多少歴史的な視点も含めて検討してみたい。
戦後日本社会において1960年代から始まった急速な経済成長と少子高齢化、都市化、核家族化、高度情報化そしてあらゆる分野でのグローバル化等々のメガトレンドが私たちの暮らしを大きく変化させてきた。しかしこれは戦後世界における先進資本主義社会(自由主義社会)にほぼ共通した傾向であり、決して日本だけの変化ではない。
戦後世界における社会保障、社会福祉をリードしたのはイギリスにおけるべヴァリッジ報告(1942年)であり、これによりイギリス福祉国家は世界における戦後の国家モデルとなったのである。しかし1970年代に入って福祉国家は多くの批判に曝されるようになり、同時にシーボーム報告(1968年)に基づき社会福祉は自治体等によるパーソナル・ソーシャル・サービスへと変化していく。これによりコミュニティを基盤とする包括的なソーシャル・サービスが主流となる。さらに1990年のコミュニティケア法により、ケアマネジメントシステムが誕生する。これは単にサービス提供のシステムにとどまらずコミュニティでのより良い生活やQOLの向上を目指すものとされてきたのである。
こうした流れが日本にも大きく影響し今日の「地域包括ケアシステム」につながっている。しかしイギリス社会福祉の伝統的特徴とされてきたコミュニティを基盤とする市民のボランタリーな活動はコミュニティケア法以後、自治体等の制度に組み込まれてきている。その結果、ボランタリーな活動が多元的な福祉サービス供給システム(福祉サービスの民営化、市場化)の1つになってしまったのである。こうしたイギリスにおける20世紀最後の状況はこれからの日本の社会福祉とコミュニティのあり方を考える上で極めて重要な歴史的事実である。
1990年と言えば日本では第1次社会福祉関係8法改正と高齢者保健福祉推進10か年戦略(ゴールドプラン)がスタートした年である。これは社会福祉の全分野に大きな影響を与えた出来事であるが、その中でも問題としたいのは事業型社会福祉協議会(社協が介護保険等の事業者となること)を法的に正当化したことである。
ゴールドプランは急速に福祉サービスの民営化、多元化を推進した。有償ボランティアなどと言う言葉も当たり前のように使われるようになり1998年に成立した特定非営利活動促進法(NPO法)もそうした動きに拍車をかけた。


介護の社会化への誤った理解

そして介護保険制度が始まって福祉の産業化が本格化した。これは日本における社会福祉のパラダイム転換だと言われ「措置から契約へ」が合言葉になったのである。私も措置制度(行政処分によるサービス提供)から社会保険制度への転換は、サービスを自己選択できることにより、福祉サービスを利用しても生活(人生)を制度によって規制されることなく、主体的な生活が可能となるという点で大いに歓迎した一人である(但し、本当はもっと過激に「年金型の介護保険」を望んでいたので、その点では大いに不満であったが)。
介護保険制度は介護の社会化が旗印であった。それまでの介護のほとんどは家の中(家族介護)か施設の中(社会的入院を含む施設介護)で行われていたが、それを社会全体で行うようにしようということであった。しかし、実際始まってみると介護保険料さえ払えば介護は保険でやってくれる。つまり、自分が介護をしなくても制度によって専門職がしてくれる(介護のアウトソーシング=介護の外部化)のだという理解が急速に広がっていった。そこから大きな間違いが始まったのである。
介護の社会化とは「自分は介護をしなくてもよい」ということではなく、みんなで介護に取り組もうということなのだが、そのようには理解されなかった。また政府も自治体も関係事業者もそうした誤った理解を当然としたのである。


マイケアプランのベースは「家族力・地域力」

介護保険制度は当初「公的介護保険」として検討されてきた。先行していた生命保険会社等による民間の介護保険を意識してのことである。また、ケアマネジメントやケアプランに関しても基本的に被保険者、要介護者の自主的な判断を尊重し、今日のような「ケアプランはケアマネジャーが作成する」と言ったシステムではなかった。しかし制度がスタートする直前になって状況は大きく様変わりした。日本型ケアマネジメントシステムという奇妙な方式の誕生である。当時の不景気も手伝って、もの凄いケアマネ・ブームが起こった。これが介護の外部化(=生活の他人化)の始まりとなったのである。
このことを知った私は折しも国際高齢者年(1999年)の真最中に当時の京都市社会福祉協議会の津止正敏部長(現・立命館大学教授)らと共に「マイケアプラン運動」を提唱した。介護が必要になっても自分らしく生きたいという強い願いで、ケアプランの作成はケアマネ任せにしないというのが基本的な趣旨であった。従って「マイケアプランは介護を『外部化』するのではなく、家族力や地域力をベースに介護保険を含む各種の社会資源を主体的に暮らしの中に『内部化』し活用する」という考え方である。こうすることで介護が必要になっても誰もが社会的に孤立することのない「市民が主体のコミュニティを創る」ことにもつながる。要するに介護されるだけの存在ではなく、当事者として主体的に生きることが地域福祉の前進に大きく貢献するという考え方である。しかし、今回の新総合事業ではケアプランの自己作成自体が認められていない。措置制度への先祖返りである。


新総合事業がコミュニティの無力化に拍車

政府もこの10年余り地域包括ケアシステムの構築に随分と力点を置いている。しかしコミュニティづくりは基本的に市民、住民、生活者の課題である。ところが新総合事業においては自治体が直接あるいは社協等を通じて市民ボランティアを雇用し、生活支援等のサービスに従事させている。これは明らかにボランティア潰しである。行政に雇用され行政の仕組みに中で働くことはボランタリーな活動とは無縁である。
そうしたことから長年市民ボランティアとして各種のまちづくり活動に取り組んできた人々は、行政(あるいは社協)が新総合事業に市民ボランティアを巻き込むことに対しては大きな怒りを感じている。
政府は新総合事業を地域包括ケアシステムの一環として、コミュニティ再生につなげて行こうとしているが、主体となるべき市民を行政が巻き込むことで結局は安上がりで責任の所在が不明確なサービスをばらまくだけのものとなっている。しかもそこには生活支援の重要な意味合いへの理解を根本的に欠いているため利用者個々の生活文化を無視するものでしかない。このようにして行政や社協は市民を便利遣いして、コミュニティを一層無力化している。要するに財政ありきの発想がこうした論理の逆転を招いているのである。コミュニティが無力化すれば制度は砂上の楼閣となり、コストだけが膨らむ皮肉な結果となる。
また、真に市民・住民主体のコミュニティづくりに責任をもって取り組むだけの自覚や意欲・力量を持たない今日の社協を再生させるのも、市民・住民であることをわれわれは自覚しなければならない。より良いコミュニティづくりは市民としての固有の責任である。